どこの学校行ってるのかな、とか。
なんでこんなに世間知らずなのかな、とか。
聞きたいことは山ほどあったけれど。

それでも聞けなかったのはきっと、俺が心のどこかで真実を直視することを恐れていたから。


出来ることなら、このぬるま湯みたいなまどろみにずっと包まれていたいと思っていたから。



       The third day   




時間は10時40分。もちろん朝の。
俺は大きな時計台の柱に寄りかかって、何ともなしに空を眺めていた。
雲がうっすらと筋になって流れていく。

「……暇だ。」
ぽつりと呟いた言葉を聞いている人なんてきっといないのだろう。



しばらくそのまま空を見ていると、人の走る音が聞こえてきた。
ここを待ち合わせ場所に使っている人も多いから、他人かな、とも思ったけど。
時間的にそろそろ来る頃だろうと振り返る。

「…20分ちこくー。」
「ご、ごめんなさいっ…反対方向、行っちゃって…」
息を切らせて走ってきて、申し訳なさそうに項垂れる彼女。
この二日間でわかったこと。
ちゃんは方向音痴だ。
(昨日もカフェを探してる途中で一回はぐれたし)


10時50分。ようやく俺達は歩き出す。
人の波に呑まれそうになりながら、それでも必死ではぐれないようにお互いの手をしっかりと握って。
まるでその繋がりが切れてしまったら世界が終わってしまうかのような、そんな不思議な感覚。
まるで御伽話のヘンゼルとグレーテルだ
鬱蒼と生い茂る木々たちは人々の波となり、恐ろしい暗がりはビルの織り成す影となって俺達を覆いつくそうとする。
そんな中で俺達はただ二人だけ、昂揚と恐怖を胸に秘めて波を掻き分けていくんだ。
俺は片手にちゃんの手を、片手に未来への希望を持って。
(なんて、そんなの大袈裟かもしれないけど、さ。)

「んで、今日はどーすんの?なんか欲しいものとかあったら買ってあげるけど。」
あ、でもあんまり高すぎるのはダメだよ、と付け加えて。
その言葉にくすくす笑うちゃんに対して思うのは、相変わらず"かわいいの"一点張りだった。
「んー…服とかってあんまりわかんないから……あ。」
首を振ったり、傾げたり、想いを巡らすように空を見上げたり。
ちょっとした仕草が、かわいい。
なんだか最近の---例えば学校で、俺達レギュラーを見てキャーキャー言ってる子達。
そんな子達と少し(少しどころじゃないかもしれないけど)違う、というか。
変わってる、というか。
やっぱり、かわいいけど不思議な子。


「植物園とか、行ってみたい。」

"普通"、服とかアクセサリーとかねだってくるんじゃないの?








植物園って、あんまり行ったことがない。
それほど興味もなかったし、つまらないところだと思っていた。
俺にとって、これからもつまらない場所なんだろう。
ちゃんが隣にいない限り。

ツバキ、サザンカ、ポインセチアにシクラメン。
冬の植物ってあんまりないものだと思ってたけど、実は結構種類がある。
ヘンな名前のも多いけど。

「うわ、これセーラー・ムーンだって」
「あははっ小さい頃やってたアニメと同じですねー」
クリスマスシーズンにあえてこんなところに来ようと思う人はやっぱり少ないらしい。
人はほとんどいなくて、ゆるやかな音楽が流れてて、一応温室みたいだからそんなに寒くもなくて。
ゆっくりと時間が流れてて、隣にはちゃんがいて、ちょっとしたことで笑いあって。
しあわせだ、本当に。
ちゃんといると、しあわせだって思うことが多い。
いや、ずっと思ってるのかもしれない。
しあわせって身近にあるものだ、なんてよく人が言うけど。
何かのアニメの主題歌みたいに、楽しいことでも毎日続いてたら、それがいつしか普通になってそのうち退屈な毎日になってしまうんだろうか。
いや、もうなってしまっていたのかも。

ちゃんは何を見るにも嬉しそうで、新鮮で純粋な楽しさを感じているようで。
それが伝染したかのように俺まで楽しくなって嬉しくなって。
二人でいることがそうさせているのか、今まで気付かなかったことに気付いたのか。


「あ、この花かわいい」
「ん、どれ?」
「これ…えっと、デンドロビウム・スノー・マジック‘ユキンコ’だって」


どっちなのか、まだ、わからないけど。






「はー癒されましたっ」
「ありがとう、付き合ってくれて」
「ん、結構楽Cーもんだね、植物園って」

甘い花の香りと柔らかい音楽、暖かな空間から排気ガスの臭いと耳にこびりつく喧騒、そして寒々しい冬の空へ。
俺達は別世界とも思えるような二つの空間を行き来したのかもしれない。

やっぱり、排気ガスの渦巻く都会よりも植物園みたいな静かな安らぎの中にいるほうがいいなぁ。

「次、どこ行きます?」
「んー……あ、そうだ。」
植物園は以前長太郎が教えてくれた。
たしか二年生は今日、練習があったはずだ。
ちゃんは氷帝に行ったことないだろうし。
俺が楽しいと思う日常を、俺が全力を注いでいたテニスを、ちゃんに見せたい、って。
唐突に、思った。



「氷帝学園、行ってみる?」






学校は楽しくて好き。
テニスは楽しくて好き。
勉強も嫌いじゃないし、テニスで勝つために努力するのも悪くない。
みんなで全国行って、優勝して。そんな夢だってみてて、実現するって信じてた。

「でも、あのときの俺らにはあれが全力で、限界で……精一杯だったから、さ。悔しいとは思うけど、悲しいとかはねーかな。」
「テニスの全国大会、かぁ…見たかったな、芥川くんが頑張ってるの。」
きっと、すごく楽しそうにやってたんでしょ?って付け加えて、微笑む。
確かに悲しいとかはねーけど、やっぱり思い出すとちょっと落ち込む事実がその笑顔でちょっと和らいだ感じがする。

あーあ、俺って現金なやつ。
「あ、ちゃん、こっちこっち。ほら、ここ。俺、いっつもここで昼寝してたの。」
随分お世話になった大きな木の根元。
夏は貫くような日差しの中、木漏れ日と木の匂いであふれるこの場所は俺の安らぎの場所で。
冬は落ち葉で焼き芋をやった記憶がある。
(確か宍戸主催だった気がする)

「うわ、大きい…落葉樹だね、葉っぱが全部落ちてる」
「え、そーなんだ?俺全然気にしたことなかった。」

俺の過ごした三年間。
俺の過ごした場所。
俺が確かに存在した、証。
そんな証が、ずっと欲しいと思ってた。
誰かに知って欲しかったのかもしれない。
学校のヤツラとかじゃなくて、仲間じゃなくて、他の誰かに。


テニス部の部長は日吉になってて、副部長は長太郎だった。
でもなんか、樺地と三人で200人をまとめてるって感じがした。
そう考えると、やっぱり一人でこの人数を纏め上げてた跡部ってスゴイ奴だったんだな、なんて。

あ、そうだ。今度ちゃんも跡部に紹介してあげよう。
奪われちゃわないように、気をつけながら。


「そんでーここが俺がいつも通ってた道。この先の公園だっけ、俺達が初めて会ったの。」
「うん。ここ、桜並木だよね。…春は桜がすごくキレイなの。」
「そーそー。通学路に指定されてるから花見の酔っ払いもいねーし。」
俺達を会わせた公園は、やっぱり一昨日と同じ姿だ。
ダンボールに入った可哀想な子猫は、今はもうそこにはいないけれど。

暮れ始めた空を眺めながら、ブランコを緩くこいで。
なんだかそこだけ切り取られた空間みたいだ。
ちゃんといると、全てが輝いて見える気がするのは何故だろう。
やっぱり、彼女がどこまでも純粋だからだろうか。
でも、その純粋さはどこからきたんだろう。
疑問はつきることなく俺を襲ってくるけど、それを聞く勇気なんて俺は持ち合わせていなかった。
本当は、それを聞く度胸だってなかったのかもしれない。
だけどその時は唐突にやってきた。

「あのね、芥川くん」

ブランコの揺れる音が、キィ、と響く。
静かな公園にただ、キィ、と哀しげに響く。

ああ、やだな。こんな空気、俺、好きじゃないのに。


「あそこに病院見えるでしょ、白くて古ぼけたの。」

そこは俺がよく見ていた病院で。
その一室は俺がちょっと頭に引っかかっていた部屋で。
ずっとカーテンの閉まっていたその部屋には本当は確かに人が存在していたんだ。

ある日カーテンが開いていて、そこに人はいなかった。
そのすぐ近くの公園で出会った少女は驚くほど白くて、ありえないほど細くて。
柔らかく微笑むけど、瞳には時々哀しそうな色がうつる。
今時いないってくらい純粋で、世間知らずで。
映画館とか植物園とか、普通の女の子なら定番だから、とか、つまんないから、とか言って避けるような場所に行きたがって。
何を見ても楽しそうで、それはまるで。

それを一生懸命、瞳に焼き付けているようで。


「私ね、あの病院の一室にずっと入院してたんだ。夕方あたりからはずーっと、カーテン、閉めてたんだけど。」


気付かなかったわけじゃない。
"気付きたくなかった"だけだ。

「あくた…滋郎、くん。私ね、」

嫌だ、やめてよ。
そんな風に名前を呼ばないで。
そんな、おしまいみたいな声で俺を呼ばないで。
名前で呼んで欲しかったけど、違うんだ。

そんな呼び声、俺は欲しくなかったし、そんな事実、俺は避けて通りたかった。


「病気なの。もう、治らないんだ。あと4日間の命なの。」


俺はどうすることも出来ずにただ呆然とそこに佇んでいた。