空は段々と明るさを失っていって、街はゆっくりときらめきを増していって。 それでも俺と彼女の左手にはめられた指輪はその輝きを決して失わずに。 俺も、その輝きに負けないように彼女の細い細い指を白い白い小さな手をしっかりと、握りしめて。 そして俺達は一緒にいられる最初で最後の夜を迎える。 |
| The last day |
空に人工的な光が反射してきらきらと輝く。 昼間よりも数倍強いように見えるそれは、月の光も星の瞬きもすっかり隠してしまっていて。 携帯の普及している今、あまり見かけることのなくなった公衆電話のボックス。 それに体を凭れながら彼女の電話待ち、なんて。 なんだかとても、おかしな感じもして。 「慈郎くん」 おまたせ、と笑うちゃんに、ううん、と笑い返して。 当たり前のように手を握る。 指をしっかりと絡めて、離れないように。 「お母さん、なんだって?」 「うん。本当は家に帰ってきて欲しいけど、慈郎くんと一緒にいていいって。」 残された時間は少し。 この一週間、ちゃんはずっと俺と一緒にいた。 それでも夜は必ず、家に帰ってお母さんとお父さんと過ごしていて。 その時間を、最後の最後で俺が奪ってしまった。 (こんなこと、本当は許されないことなんだろうか。) やっぱり、子供にとっても親は何ものにも変えられないくらい大切で。 親にとっても子供は何ものにも変えられないくらい、大切なもので。 親が子供を独占したいと思うのは、きっと当然の愛情で。 それでも俺はちゃんのことを好きだと思っていて大切だと思っていて。 だったら、俺がちゃんを独占したいと思うのも当然の愛情なんだろうか。 (どのみちちゃんを"独占"することなんか、誰にも出来やしないのだけれど。) 「慈郎くん」 絡めた手をきゅ、と少し強く握られて。 にこにこと笑いながら、俺のテニスが見たいと言うこの少女の全てを独り占めすることなんて、きっと誰にも出来やしない。 小さい頃、よく跡部の家で遊んだ。 毎年行われるクリスマスパーティーにも参加させてもらって。 宍戸や滝も一緒に、4人でよく遊んだ。 大人たちが騒いでいる間は庭のテニスコートで、子供の体には大きすぎるようにも思えるテニスラケットを握って打ち合った。 確かにサーブなんて入ることのほうが少なかったし、ゲームというよりただラリーを続けるだけだったけれど。 それでも、その頃の俺達にはそれが日常で、楽しみで。 いつからだったろうか、そんな毎日がゆっくりと霞んで消えてしまったのは。 「夜分遅くにしつれーしまーす」 「本当にお前は…時間っつーもんを考えられねぇのか。」 時刻は8時を少し回ったところ。 美味しそうなピザ屋さんでゆっくりと晩御飯を食べて、都内で一際目立つ豪邸へ向かった。 警備員さん達は一瞬驚いた顔をして、それから懐かしさでも感じているかのように微笑んだ。 玄関の前で携帯を取り出して、跡部に電話をかける。 出てきた跡部はぴしっとした恰好をしていて、口調は相変わらずぶっきらぼうで怒っているようだったけど。 それでも、瞳は柔らかくて、まるで笑っているようだった。 跡部のご両親に挨拶して、跡部を借りていくことを告げて。 ちゃんと跡部、二人の腕を引っ張って慣れ親しんだテニスコートへ向かう。 「おい、こらジロー!お前人の家の庭を自分の家のごとく歩くなって!」 「EーじゃんEーじゃん。昔はよく遊んだ仲でしょー?」 ナイター設備の付いたコート。 2面あるうちの片方のライトをつけて、リュックからラケットを取り出す。 二本あるうちの一本を跡部に渡して。 籠に入った沢山の黄色いボール。 二つ三つ手にとって、硬さを確認する。 ああ、落ち着く。 慣れ親しんだ硬さに、グリップの感触に、コートのにおいに。 何故かとても、懐かしさにも似たものを感じた。 「ちゃん、そこのベンチに座って見てて。あ、言い忘れてたけどコイツが跡部。テニス、すっげー上手いんだ。」 「あ…は、初めまして。慈郎くんの…えっと、友達のっていいます。」 "友達"。 そう、俺達は"友達"だ。ちゃんは俺を好きだといった。 俺もちゃんが好きで、ずっと一緒にいて、ずっとずっと一緒にいたくて。 でも、俺は好きだなんていっていなくて。 気持ちは伝わっていなくて。 ちゃんは、俺の"友達"だ。 (ああ、なんかそれって少しだけ、悲しい。) 「6ポイント先取でいいだろ。長引くと面倒だ。」 「りょうかーい。サーブ貰ってEー?」 「おう」 ボールを高く、高く上げて。 ナイター設備のライトと星明りに照らされた、黄色いボールを目で追って。 慣れ親しんだリズムで打ち出す。 慣れ親しんだ音が響いて、反射的に前に出る。 跡部が打ち返してくる球を目で追って、ラケットに当てる。 それをまた、跡部が拾う。 少しの間、ラリーが続く。 こんな感覚は久しぶりだ。 引退して、試合をすることも少なくなって。 一人で壁打ちをすることはあったけど、こうして誰かとテニスをするのは久しぶりで。 こうして遊びで誰かとテニスをするなんて、本当に久しぶりで。 (ああ、楽しい) (そして、懐かしい) 考えているうちに、跡部の打った球が俺の後ろに落ちる。 跡部を見ると、少しむっとした顔をされた。 「15-0。何考え事なんかしてんだよ。そんなんじゃ勝負にもなんねぇぞ。」 「はは、ごめんごめん。」 「しっかりしろよ、起きてんだからよ。……俺様を楽しませろよ、ジロー」 ああ、そうか。 跡部も久しぶりなんだ。テニスをするのが。 俺達はみんな、育った場所も環境も違う奴らの集まりで。 確かに幼稚舎から一緒の奴らは長い付き合いな訳だけれど。 それでも、一人一人価値観だとか、性格だとか、全部違っていて。 でも唯一つ共通だったのは、テニスが好きだっていうことだった。 テニスが好きで好きで仕方なくて。 試合で勝っても負けても、決してそれは変わらなくて。 「慈郎くん」 ふと、袖が引かれる。 ちゃんがコートの少し外まで来ていて、袖を引っ張っている。 小さな、小さなその手で。袖をぎゅっと掴んで。 「あの……がんばって、ね。ずっと見てるから。ここで。」 にこりと微笑むちゃんに微笑み返して、左手でちゃんの頭をぽん、と叩く。 言葉は何も発さずに、コートに転がったボールを持って。 サーブを打つときの定位置に行って。 「ねぇ、跡部。」 うん、だいじょうぶだ。 ちゃんが見ててくれるから、もう考え事なんかしない。 「サービスは、絶対キープっしょ。」 ただ純粋に、このゲームを楽しむ。 「…っあーやっぱ強よいや、跡部は。」 「アーン?当然だろ。」 確かに第一セットは俺が取ったけど、その後跡部は少し本気を出してきて。 いや、跡部の中でも何か吹っ切れたのだろうか。 本気で、楽しもうとしていたのかもしれない。 結果は6対2で跡部の圧勝。 だけど悔しいとは思わない。 ただ純粋に、楽しかった。 すごく、楽しかったんだ。 (ちゃんに恰好いい所を見せられなかったのは、ちょっとだけ残念だけど。) 「じゃあ俺はパーティーの方に戻るが…。もう遅いし、泊まって行け。、だったか。お前もな。」 時計を見ればもうすぐ11時。 あの後更に2ゲームくらいやって、三人で話をして、ちゃんにテニスを少しだけ教えて。 楽しかった、本当に。 いや、過去形ではおかしい。 楽しいんだ、本当に。 ただ純粋に楽しくて。ずっとずっと、こんな時間が永遠にでも続けばいいのに。 (そんなこと考えてても、俺達は前に進まなくちゃいけないのだけれど。) 「じゃあな、ジロー。ここは好きなだけ使っていいが、部屋に行く時には閉めてけよ。それと…大晦日、また集まるらしいから来いよ。」 「あー…宍戸主催の?」 「ああ。、お前も来たかったら来いよ。歓迎するぜ?」 にやりと笑ってみせる跡部に笑い返して、ちゃんの手をぎゅっと握る。 跡部が言った瞬間、ほんの少しだけ。体が、びくりと強張ったような気がしたから。 跡部の後姿に手を振って、あまりにも静かなテニスコートに少し驚く。 ああ、こんなにも静かなものなのか。 ボールの音も応援の声も、笑い声も響かないコートは。 「慈郎くん。跡部さんって強いね。慈郎くん、こんなに上手なのに負けちゃうなんて。」 「うん。跡部はすごいよ。あーあ、折角ちゃんにカッコEートコ、見せたげよーと思ったのに。」 ベンチから立ち上がって、テニスコートの真ん中にごろんと寝転がる。 星がきらきらと輝くのが見える。それはすごく遠いようにも見えたけれど。 街の明かりに負けそうになりながらも、とてもとても遠くても、それは確かに輝いていて。 「慈郎くん、すごく恰好良かったよ。私は…跡部さんよりも慈郎くんの方が、すき。」 けれどその星たち以上に、ちゃんの方が輝いて見えた。 ちゃんが俺の隣にごろんと横になって、一緒に星を眺める。 少し手が触れ合って、どちらからともなく握る。 離れないように、強く。強く。 ちゃんの左手にはめられた指輪が、きらきらと光る。 ふと隣を向けばちゃんがいて、目が合って微笑んで。 ああ、しあわせだ。 「…あのさ、ちゃん。」 ずっと言うのが怖かった。 言ってしまえば、この気持ちを本当に認めてしまいそうで。 言わずにいることは辛いけど、言ってしまえばそのあともっと辛くなる。 だけど、それでもどうしても。言わなければいけない気がして。 すっと息を吸い込んで。 だいじょうぶ。うん、だいじょうぶだ。 「ねぇ、慈郎くん。サンタクロースって何歳まで信じてた?」 「へ?」 言おうとした瞬間に、思っても見ないことを聞かれれば誰だって驚く。 思わず素っ頓狂な声を出してしまったけれど。 変な質問に気が抜けてしまったのか、何歳までだろう、なんて真剣に考えてしまう。 「えっと……小4くらいまで、かな?」 それがどうかしたのだろうか。 ちゃんはただひたすら空を眺めていて。 「私はね、ずっと信じてた。ずっとずっと、クリスマスになるとね、サンタさんが奇跡を起こしてくれるって信じてた。」 ちゃんの瞳から、きれいなきれいな涙が流れて頬に筋を作る。 明かりが反射して、きらきらと輝いて。 俺はそれすらもきれいだと感じる。 はじめて見た、ちゃんの涙を。 「毎年奇跡なんて起こしてくれなかったけど、それはきっと、私がまだいい子じゃないからだって言い聞かせてた。悪いこのところにはサンタさんは来ないんだ、って。」 俺は少し体を起こして、ちゃんに半分覆いかぶさるような形でそっと、涙を拭う。 ちゃんはただ、ぽろぽろと涙を零すだけで。俺はただ、それを拭うだけで。 「…本当はね、大きなくまのぬいぐるみも、可愛らしいお人形も、きらきら光るおもちゃの宝石もいらなかったの。」 ちゃんは、涙を流しながらにっこりと微笑んだ。 涙を拭い続ける俺の頬に手を添えて、ただ微笑む。 「恋をしてみたかったの。テレビで見るような、純粋に誰かを好きだと思うような恋がしたかったの。それだけ、だったの。」 もし本当にサンタクロースがいるならば、どうか彼女の願いを叶えてほしい。 サンタクロースでも、神様でも、何でもいい。 彼女の願いを叶えてください。 いや、俺の願いかもしれない。 ちゃんからひしひしと伝わる、生きたいと思う気持ち。 しっかりと握り締めた手から、拭い続ける涙の暖かさから、俺の頬を撫でる柔らかな手から。 その思いが、伝わってきて。 「慈郎くん。……すき。すきなの。だいすきなの。」 「…俺も、すき。すきだよ、ちゃん。だいすきだよ。」 やっと、言うことが出来た。 ずっとずっと、言いたかった言葉。 ずっとずっと、言えなかった言葉。 ちゃんは俺の言葉を聞くと、安心したように笑った。 よかった、と言って、笑った。 日付はあと10分程度で変わりそうで。 もう涙の流れていない筋をそっとなぞって、ゆっくりと、本当にゆっくりと。 そっと、そっと、壊れないように。 ちゃんの額に口付ける。 ちゃんは少し驚いたように一瞬体を強張らせて。 ゆっくりと顔を離すと、恐る恐る瞳を開けたちゃんと目が合って。 二人同時に笑いあった。 「えへへ、しあわせだ。私、今すごくしあわせ。すきな人にすきだ、って言ってもらえて。キス、してもらえて。」 そのまま、すっと瞳を閉じる。 それがあまりにも儚げで。 何故だかとても、遠くへ行ってしまいそうで。 俺は慌ててちゃんの頬に口付ける。 手をもっと強く握り締めて。 どこにも、いってしまわないように。 「…ねぇ、慈郎くん。」 「ん?」 直感でわかった。 きっと、その時がきてしまったんだと。 けれど認めてしまいたくなかったから、気付かないふりをした。 微かに震える手の所為で、ちゃんにはわかってしまったかもしれないけれど。 「さくら、見たいな。慈郎くんと、一緒に。あの、桜並木の、きれいなさくら。」 「……うん。」 見たい、と言っているのに。 一緒に見よう、と言えばいいのに。 それでもちゃんは見れない、と言っているようで。 それでも俺は、一緒に見ようなんて言うことは出来なくて。 神様。サンタクロース。何でもいい。ちゃんと一緒に桜が見たい。あの桜並木の、まるで空が桃色に染まってしまったかのような桜を。 「…あ。慈郎くん、見て。雪…降ってきた。」 「え?」 空を見上げれば、ゆっくりと降り注ぐ真っ白な雪。 手にとって見れば、それはすぐに溶けて消える。 儚くて、きれいで、穢れなくて。 まるでちゃんのようだ、とも思ったけれど。 「きれい。きれいだね、じろうくん。すごく、きれい。」 ちゃんの言葉が、段々と小さくなっていくのがわかる。 ああ、嫌だ。 いやだ。折角すきだって言えたのに。 ちゃんが離れていく。 俺はそれを阻止するかのように手をもっと強く、強く握る。 (それが無駄なことだったいうことはわかっていたけど認めたくはなかった、絶対に。) 「ごめんね、じろうくん。お薬…もう、きれちゃうみたい…」 ちゃんは微笑む。 すごくすごく悔しいはずなのに、悲しいはずなのに、微笑む。 サンタクロースは奇跡を起こしてくれるだろうか、最初で最後の奇跡を。 お願いだから、起こしてくれ。 「…だいじょうぶだよ、ちゃん。だいじょうぶ。」 俺はただ、ちゃんの手を握って、だいじょうぶだ、と微笑むしか出来なくて。 そっと、顔をゆっくりと近づけて。 だいじょうぶ、と言うように、そっと、そっと。 今度は唇に、ゆっくりと口付ける。 舌を絡めるでもなく、ただ口付けて。 暫くして、ゆっくりと離す。 柔らかなちゃんの唇の感触が残っている。 ちゃんはゆっくりと微笑んで、本当にしあわせそうに微笑んで。 「ありがとう、じろうくん。わたし、しあわせだよ。すごく、すごく。」 ちゃんは本当に、幸せそうに瞳を閉じた。 時間は0時を回って3分。 12月25日。クリスマス。 聖なる日。イエス・キリストの生まれた日。 俺はただ、頬に伝う生暖かなものだけ感じていた。 背後でドアの開く音がする。 人の歩いてくる足音。 俺は振り向きもせずにただ、ちゃんを抱きしめていた。 「おいジロー。お前まだ部屋に行って……おい。そいつ、どうしたんだ…?」 俺はちゃんをぎゅっと抱きしめる。 空を見上げれば、ただゆっくりと雪が降り続けている。 「……ちゃんは、少し長く眠っているだけなんだよ。少しだけ、長い夢を見てるだけなんだ。」 だってそう考えないと、この気持ちをどう抑えたらいいかわからないから。 眠っているだけなら、俺は夢の中できっとちゃんにもう一度会えるから。 「ねぇ、跡部。本気の恋って、苦しいね。」 雪はゆっくりと、しとしとと、いつまでも降り続いていた。 桜はこの春、きっときれいに咲く。 だけど。 サンタクロースは奇跡なんて起こしてやくれなかった。 |